派閥の食卓
カドレイユ公爵邸の晩餐会には、いくつかの不文律がある。
席順はダリオの右手から格の高い順に並ぶ。乾杯の音頭はダリオが取る。料理が運ばれるたびに主人が一口つけるまで誰も手をつけない。そして――話題がどれほど白熱しようとも、ダリオの声が最後に響く。
ヴィクトル・レーヴェンは、テーブルの末席に近い場所で、グラスを傾けていた。
七つある席のうち、六番目。レーヴェン子爵家の格からすれば妥当な位置だ。上席には南部の有力貴族が三名、その下に魔術院に子弟を送り込んでいる中堅の家が二つ。いずれもカドレイユ派の中核を成す面々。
そして主座に、ダリオ・アルヴ・カドレイユ。
「――魔術院の予算配分について、副宰導はまた王宮の顔色を窺っているようだな」
ダリオの声は低く、よく通る。怒気はない。むしろ穏やかですらある。だがこの穏やかさの裏に何があるか、この席にいる全員が知っている。
「南部拠点への追加予算を求めた嘆願書に対して、あの女は『検討する』と返してきた。検討だ。――いつもの手だよ」
上席の男爵が相槌を打つ。
「グリシカ・クルーシャは判断を保留することで、どの派閥にも与しない姿勢を見せているつもりなのでしょう。しかし実態は、王宮の通達に配慮しているに過ぎません」
「その通り。副宰導の椅子に平民を座らせたこと自体が、魔術院の堕落を示している」
ダリオは杯を傾けた。赤い葡萄酒が灯りを受けて揺れる。
ヴィクトルは黙って聞いていた。料理を口に運びながら、頭の中では別のことを考えている。
――グリシカの「検討する」は判断の保留ではない。カドレイユの嘆願書の裏にある政治的意図を見透かした上で、時間を稼いでいる。あの人は、この席の誰よりも頭がいい。
だが、もちろんそんなことは口にしない。
「ヴィクトル」
名前を呼ばれて、背筋が伸びる。ダリオの冷たい目が、テーブルの末席を射抜いていた。
「お前の領地は中部だったな。王都との往来も多い。最近の宮廷の空気はどうだ」
質問の形を取った命令だ。報告しろ、ということ。
「はい。宮廷魔術師の登用について、女王陛下がさらに拡充を検討されているという話を耳にしております。特に五星の戦果を受けて、宮廷魔術師の地位を恒久的な制度にしたいとの意向があるようです」
「恒久的な制度、か」
ダリオの唇が、わずかに歪んだ。笑みとも嘲りとも取れる表情。
「あの小娘は、魔術院の星制度に対抗するつもりらしい。宮廷魔術師などという箔のない肩書きで、何ができるというのだ」
――小娘。
ヴィクトルの内心に、かすかな引っかかりが走る。アレクシア女王は確かに若い。実力が傑出しているわけでもない。だが、あの人を「小娘」の一語で片づけていいのか。
もっとも、この引っかかりに意味はない。少なくとも、この席では。
「仰る通りかと存じます」
いつもの言葉を返す。ダリオは満足げに頷き、視線を上席に戻した。
話題は魔術院の次期人事に移る。カドレイユ派から執行会議に新たな幹部を送り込む算段。誰を推し、誰を退け、どの家に恩を売るか。ヴィクトルはその計算を聞きながら、自分がこの席に座り続ける理由を、改めて確認する。
父が死んだ時、レーヴェン家には何もなかった。
武勲もない。傑出した魔術師もいない。あるのは中部の街道沿いの、取るに足らない領地だけ。後ろ盾を失った小さな家が生き残るには、大きな木の陰に入るしかなかった。
カドレイユは、その木だ。
別に信奉しているわけではない。ダリオの掲げる「魔術院を中心とした新たな体制」なるものに、心から共感しているわけでもない。ただ、この木の陰にいれば、雨に打たれずに済む。それだけのことだ。
――それだけのことだ、と自分に言い聞かせる回数が、最近増えている気がする。
晩餐が終わり、客間に場所を移す。
食後の酒が振る舞われ、貴族たちは三々五々に固まって密談を始める。ヴィクトルは壁際に立ち、杯を手にしていた。積極的に輪に入る必要のない立場は、こういう時に都合がいい。
「レーヴェン卿」
声をかけてきたのは、上席に座っていた男爵の一人だった。ガイル・エクハルト。カドレイユ派の中では古参で、南部の穀倉地帯を治める実力者。五十を過ぎた禿頭の男で、人当たりは良いが目は笑っていない。
「エクハルト卿。今宵もご壮健で」
「お前も相変わらず如才ないな。――少し話がある」
壁際の二人きりの空間で、エクハルトは声を落とした。
「来月、魔術院の執行会議で南部拠点の予算案が議題に上がる。ダリオ様は可決を望んでおられるが、副宰導が動かない限り難しい」
「存じております」
「そこでだ。お前、王都に出入りする機会が多いだろう。副宰導の周辺を探れないか。あの女が何を考えているのか、どこに弱みがあるのか」
ヴィクトルは杯を傾けながら、表情を変えなかった。
弱み。グリシカ・クルーシャの弱み。馬車の転覆事件を生き延び、護衛も拒否して単独で通勤する女に、弱みなどあるものだろうか。
「微力を尽くします」
答えながら、頭の中では別の計算が回っている。
これは好機かもしれない。副宰導の周辺を探るという名目で、魔術院に出入りする口実ができる。カドレイユ派の意向に沿いながら、同時に自分の情報網を広げられる。
政治とは、常に二枚の札を切ることだ。
一枚はダリオに差し出す。もう一枚は、自分の手元に残す。
どちらの札が最後に生きるかは、まだわからない。
公爵邸を辞去したのは、夜半を過ぎた頃だった。
馬車の中で、ヴィクトルは額に手を当てて天井を見上げた。揺れる車体の中で、今宵の会話を反芻する。
ダリオの自信。エクハルトの依頼。上席の貴族たちの忠誠。末席の自分の相槌。
すべてが噛み合った歯車のように、派閥は回っている。その歯車の一つであることに、不満はない。不満はないはずだ。
だが。
――「あの小娘は、魔術院の星制度に対抗するつもりらしい」
ダリオの言葉が、耳に残っている。
アレクシア女王が五星を創設したのは、ただの対抗策だったのだろうか。魔術の才が並程度の王が、それでも「王家こそが魔術の守護者である」と示そうとしたのは、権力欲だけだったのか。
第二次帝国侵攻で五星が戦果を挙げた。あの結果を見れば、女王の判断は正しかったことになる。少なくとも、結果論としては。
――結果が正しければ、過程は問わない。
それがヴィクトルの信条だった。強い側につく。勝つ側を選ぶ。過程に意味はなく、結果だけが真実を語る。
では、もし。
もし、カドレイユが「勝つ側」ではなくなったら。
馬車が石畳の段差を越えて揺れた。ヴィクトルは目を閉じ、その思考を振り払った。
まだ早い。まだ、その問いに答える時ではない。
今はただ、二枚の札を握っておけばいい。
窓の外を、王都の夜が流れていく。遠くに見える宮殿の灯りが、闇の中でぼんやりと光っていた。