王都の廊下


魔術院の正門をくぐるのは、三年ぶりだった。

学生時代、ヴィクトル・レーヴェンはこの門を「自分には縁のない場所」と感じていた。王都魔術学校を卒業したものの、院に籍を置くような才覚はなかった。同期の中には三つ星、四つ星と位階を重ねる者もいたが、ヴィクトルにとって魔術は「並」でしかなく、それ以上にはなりえないと早々に見切りをつけた。

だが今日、この門をくぐる理由は魔術ではない。

カドレイユ派の名目で、南部拠点の予算案に関する「意見交換」を魔術院の事務方と行う――というのが表向きの口実だ。実際の目的は、エクハルトから命じられた通り、副宰導グリシカ・クルーシャの周辺を探ること。

廊下を歩きながら、すれ違う魔術師たちの視線を感じる。子爵程度の貴族がこの場所に来ること自体は珍しくないが、好奇の目が向けられるのは避けられない。

――場違いだとは思われているだろうな。

慣れている。場違いな場所で、場違いでない顔をするのは得意だ。


事務方との面談は、予想通り実りがなかった。

予算案の進捗について丁寧な説明を受けたが、要するに「執行会議で審議中です」の一言に尽きる。カドレイユ派が何を言おうと、副宰導が首を縦に振らない限り南部拠点の予算は動かない。それは来る前から分かっていたことだ。

問題は、その副宰導がどこにいるか。

面談を終えて廊下に出ると、研究棟へ向かう渡り廊下が見えた。午後のこの時間帯、副宰導は研究棟の巡回をしていることが多い――という情報は、事前に掴んである。

足を向ける。

渡り廊下の途中で、若い研究員とすれ違った。何かの論文を抱えて早足で歩いている。目が合うと、軽く会釈を返してくれた。

「すみません。副宰導はこちらにいらっしゃいますか」

「グリシカ様でしたら、第三研究室の前にいらしたかと。巡回の途中だと思います」

礼を言って先へ進む。第三研究室。角を曲がると、廊下の先に人影が見えた。

質素な外套。腰帯に短杖。背は高くないが、立ち姿に隙がない。

グリシカ・クルーシャが、研究室の扉の前に立っていた。扉は開いており、中から若い声が聞こえる。研究員が何かを説明しているらしい。グリシカは腕を組み、黙って聞いている。

ヴィクトルは歩みを緩めた。

距離を詰めすぎず、視界に入る位置で立ち止まる。相手に気づかせ、こちらから声をかけるのではなく、向こうから反応させる。政治家の基本だ。自分から近づいた者は、必ず何かを求めている。そう思わせないためには、「偶然そこにいた」形を作る。

一分ほど待った。研究室の中の説明が終わり、グリシカが一言二言返す声が聞こえた。それから扉が閉まり、グリシカが振り返る。

目が合った。

「……レーヴェン子爵ですか」

名前を知っていた。いや、知っていて当然だ。カドレイユ派の構成員の顔と名前を把握していない副宰導ではないだろう。

「お忙しいところ失礼いたします。本日は予算案の件で事務方とお話をしておりまして」

「そうですか」

それだけだった。追及も、警戒も、関心も見せない。ただ「そうですか」と返しただけ。

この女は、探りようがない。

「少しだけお時間をいただけますか。南部拠点の件で、現場からの声をお伝えしたく」

「現場の声、ですか」

グリシカの目が、ほんの一瞬だけヴィクトルの顔に留まった。何かを測るような、短い視線。

「……立ち話で良ければ」

歩き始めたグリシカに、ヴィクトルは半歩遅れてついていく。

「南部の魔術研究拠点ですが、現在の設備では冬季のマナ観測に支障が出ております。予算の増額がなければ、来期の研究計画に遅延が生じるかと」

嘘ではない。だが、この話をしたくてここに来たわけでもない。本当の目的は、この女と言葉を交わすこと。その反応を見ること。何を考え、何を重んじ、何に動くのかを探ること。

「観測設備の件は把握しています。予算については執行会議で審議中です」

「ええ、事務方からも伺いました。ただ、審議が長引くことで現場の士気に影響が出ることを懸念しております」

「士気」

グリシカが、その一語だけを拾った。足を止めはしなかったが、声の温度がわずかに変わった気がした。

「現場の研究員が成果を出すために必要なものは、できる限り整えたいと思っています。ただ、予算は有限です。どこかを増やせば、どこかが減る。それを判断するのが執行会議の役割です」

「仰る通りです」

「レーヴェン卿」

グリシカが足を止めた。廊下の窓から、午後の光が差し込んでいる。

「カドレイユ公爵家の嘆願書は拝読しました。現場の声を届けたいというお気持ちは理解しますが、予算の増減は政治ではなく、必要性で判断します。それだけは、お伝えしておきます」

静かな声だった。威圧ではない。だが、一分の隙もなかった。

――この人は、最初から全部見えている。

ヴィクトルが何のために来たのか。誰に言われて来たのか。本当に知りたいことが何なのか。すべて見透かした上で、「予算は政治ではなく必要性で判断する」と、正面から釘を刺してきた。

弱みどころか、付け入る隙すらない。

「肝に銘じます。お時間いただきありがとうございました」

グリシカは小さく頷き、次の研究室へ歩いていった。その背中を見送りながら、ヴィクトルは内心で舌を巻いていた。

――エクハルトには何と報告したものか。「弱みはありませんでした」では話にならない。

しかし、一つだけ収穫はあった。

「士気」という言葉に、グリシカの声が変わった。あの瞬間だけ、事務的な応答ではない何かが覗いた。現場の人間を気にかけている。貴族の政治的思惑ではなく、研究員の仕事を守ることに、この人は本気で関心を持っている。

平民出身の副宰導。護衛もつけず、派閥にも属さず、ただ「必要性」で判断すると言い切る女。

――あの人に比べたら、私はどうだ。

その思考を、すぐに打ち消した。比べる意味はない。自分は自分のやり方で生きる。


魔術院を出て、王都の通りを歩く。

午後の日差しが石畳を温めている。予定では、このまま宿に戻って報告書をまとめるはずだった。だが足は、別の方向に向いていた。

宮殿の方角。

理由があるわけではない。強いて言えば、カドレイユ派の晩餐会で耳にした「宮廷魔術師の制度化」について、もう少し情報を集めておきたいという程度のもの。二枚目の札のための、些細な寄り道。

宮殿の正門は貴族であれば通過できる。身分証を見せ、回廊に入る。

王宮の廊下は魔術院とは空気が違う。魔術院が「知」の権威を誇示するなら、宮殿は「血統」の権威を纏っている。壁に掛かった歴代の王の肖像。磨き上げられた石の床。ここにいると、自分のような子爵風情は石畳の一枚にも満たないと思い知らされる。

謁見の間に続く大廊下を歩いていた時だった。

角を曲がった先で、小さな人だかりができていた。

宮廷の文官が数名。その中心に、一人の女性がいた。

質素だが仕立ての良い衣装。飾り気の少ない冠。背は低く、一見するとその場の誰よりも地味に見える。だが周囲の文官たちの姿勢を見れば、誰がこの場の中心かは一目瞭然だった。

アレクシア・アルヴ・イリディア。

アーヴェリア王国の女王。

ヴィクトルは足を止めた。壁際に退き、通路を譲る姿勢を取る。貴族として当然の礼儀。目を伏せ、女王が通り過ぎるのを待つ。

だが、足音が止まった。

「――レーヴェン子爵ですね」

顔を上げると、アレクシアがこちらを見ていた。穏やかな目。怜悧さよりも、誠実さが先に立つ表情。

「陛下。ご機嫌麗しゅう存じます」

定型の挨拶を返す。内心では驚いていた。レーヴェン子爵の顔を覚えているのか、この女王は。末席の貴族など、視界にも入らないはずだ。

「今日は宮廷に御用ですか」

「いえ、魔術院での用務の帰りに、少し足を延ばしただけでございます」

「そうですか。魔術院は……いかがでした」

不思議な聞き方だった。「何の用だったのか」ではなく、「いかがでした」。感想を聞いている。まるで、宮廷の廊下で世間話をする隣人のように。

「活気がありました。若い研究員たちが、熱心に仕事をしておりました」

嘘ではなかった。グリシカの巡回に遭遇した時、研究室の中から聞こえていた若い声には、確かに熱があった。

アレクシアが、わずかに目を細めた。

「それは良かった。……魔術院の研究が盛んであることは、王国にとって喜ばしいことです。誰がそれを支えているかに関わらず」

――誰がそれを支えているかに関わらず。

その一言が、ヴィクトルの耳に残った。

王家でも、カドレイユでも、魔術院自身でもなく。支えている「誰か」が問題なのではなく、研究が盛んであることそのものが良いのだと。

政治的にはまったく無防備な発言だ。カドレイユ派の人間を前にして、「誰が支えていても構わない」と言ってしまえば、自ら王家の関与を放棄しているようにも聞こえる。

だが。

この女王は、本気でそう思っている。

ヴィクトルには、それがわかった。人の腹の裏を読むことに長けた彼の目が、アレクシアの言葉に嘘を見つけられなかった。

「……恐れ入ります、陛下」

それだけしか返せなかった。

アレクシアは小さく微笑み、文官たちと共に歩いていった。


宿に戻ったのは、夕方だった。

机に向かい、エクハルト宛の報告書を書く。

「副宰導との面談を行い、予算案に対する姿勢を確認。副宰導は従来通り、政治的圧力には応じない構えを崩していない。引き続き情報を収集する」

事実だけを書いた。グリシカの「士気」への反応も、アレクシアとの邂逅も、書かなかった。

書けなかった、というのが正確かもしれない。

ペンを置き、椅子の背にもたれる。天井を見上げる。

今日、二人の女に会った。

一人は、平民から成り上がり、貴族の政治に一切与せず、「必要性」だけで物事を判断する副宰導。

もう一人は、力不足と嗤われながら、「誰が支えていても構わない」と本気で言える女王。

どちらも、ヴィクトルの信条とは相容れない人間だった。「勝つ側を選ぶ」という処世術の対極にいる。一人は信念で立ち、もう一人は誠実さで立っている。どちらも、この世界では生きにくい立ち方だ。

だからこそ。

「……なぜ、あの人たちは立っていられる」

口にしてから、自分の声に驚いた。

答えは出ない。出す必要もない。今はまだ、カドレイユ派の歯車として回っていればいい。二枚の札を握り、どちらが生きるか見極めればいい。

だが、今日の二つの出会いが、札の握り方をほんの少しだけ変えた気がした。

ヴィクトルはペンを取り直し、報告書の余白に、誰に宛てるでもない一行を書いた。

『必要性で判断する――それは、本当に可能なのか?』

しばらく見つめてから、その一行に横線を引いて消した。

まだ早い。まだ、この問いに答える時ではない。

だが消した線の下に、文字はまだ薄く残っていた。