領地の声
レーヴェン領に戻るのは、二ヶ月ぶりだった。
王都から馬車で一日半。街道を南西に下り、丘陵地帯を越えると、小さな盆地に開けた町が見えてくる。レーヴェンの中心地、ヘルデン。人口は三千に満たない。特産品は麦と、街道を行き来する商人が落とす宿賃。それがこの領地のほとんどすべてだ。
馬車が町に入ると、通りの空気が変わる。王都の石畳は均一に整えられているが、ここの道は所々が陥没し、雨のあとには泥濘になる。補修の予算を確保したいと思いながら、もう二年が経っている。
「お帰りなさいませ、若様」
出迎えたのは、執事のハインツだった。父の代から仕えている老人で、ヴィクトルが子供の頃から家を守ってきた。「若様」という呼び方は何度訂正しても直らない。
「留守の間、変わりは」
「大きなことは何も。ただ、東の水路が一箇所崩れまして。応急の修繕は済ませましたが、本格的な補修には予算が……」
「分かった。後で見に行く」
荷を下ろし、執務室に入る。父が使っていた部屋をそのまま引き継いでいる。窓から見える景色は、丘の上の麦畑と、その向こうに続く街道。この景色だけは、子供の頃から変わっていない。
机の上には、ハインツがまとめた領地の報告書が置いてある。税収、人口動態、街道の通行量、商人の往来記録。どれも小さな数字だ。王都で飛び交う予算の額に比べれば、桁が二つ違う。
だが、この小さな数字の一つ一つが、三千の民の暮らしそのものだ。
午後、東の水路を見に行った。
町の外れ、麦畑に水を引くための灌漑水路。石組みの一部が崩れ、応急処置として木の板が当てられている。職人の手が足りないのは一目で分かった。
「若様、こちらです」
案内してくれたのは、水路の管理を任されている農夫のオルドだった。日焼けした顔に深い皺。父の代から水路を見てきた男だ。
「冬の凍結で石が割れたんです。去年も同じ場所が危なかったんですが、今年はとうとう崩れまして」
「去年の時点で報告は上がっていたか」
「ハインツ殿には伝えました。ですが、予算がないと」
ヴィクトルは崩れた石組みの前にしゃがみ込んだ。ここを直すのに必要な金額は、おそらく金貨にして数十枚。カドレイユ邸の晩餐会で振る舞われる葡萄酒の代金にも満たないだろう。
「直す。今月中に職人を手配する」
「ありがとうございます、若様。助かります」
オルドが頭を下げる。その背中を見ながら、ヴィクトルは喉の奥に苦いものが込み上げるのを感じた。
数十枚の金貨。それすら工面に苦労するのが、レーヴェン家の現実だ。
カドレイユ派に属していれば、南部拠点の予算のおこぼれに与れるかもしれない。だがそのおこぼれが、この水路の修繕に回ることはない。派閥の恩恵は、魔術の研究拠点や貴族の権威を飾るものに注がれる。麦畑の水路には、届かない。
届かせる方法を考えるのが、当主の仕事のはずだ。
夕刻、町の酒場に足を向けた。
領主が酒場に来ることを、ヘルデンの住民は特に気にしない。父がそうしていたからだ。先代レーヴェン子爵は月に一度、この酒場で領民たちと杯を交わした。「領地の空気は、執務室ではなく酒場で掴め」が父の口癖だった。
ヴィクトルはその習慣を引き継いだ。正確には、引き継がざるを得なかった。父が急に死に、若い当主が何を考えているのかを民が不安に思っていた頃、この酒場がヴィクトルと領民を繋ぐ場になった。
カウンターに座ると、店主が何も言わずに麦酒を出してくれた。
「お帰りなさい、若様。王都はいかがでした」
「相変わらずだよ。人が多くて、空気が悪い」
店主が笑う。隣の席では商人が二人、街道の状況について話し込んでいた。
「最近、南の街道で検問が増えたんだよな。帝国との関係が怪しいとかで」
「ああ、第二次侵攻の噂だろ。前線はもっと東だってのに、こっちまで影響が来やがる」
ヴィクトルは麦酒を口に運びながら、耳を傾けた。
帝国の脅威。王都では政治と派閥争いの材料として語られる話題が、ここでは商人の荷の遅延として、検問の煩わしさとして、つまり日々の暮らしへの直接的な障害として語られている。
「若様」
声をかけてきたのは、酒場の隅に座っていた老婆だった。顔に見覚えがある。町の東端に住む、ヨルダという名の女性。夫を数年前に亡くし、一人で暮らしている。
「ヨルダさん。お元気でしたか」
「ええ、なんとかね。……一つお願いがあるんだけど、いいかしら」
「どうぞ」
「うちの裏手の道、雨が降ると水が溜まってどうにもならないの。去年も言ったんだけど」
水路と同じだ。去年から分かっていて、手が回らないこと。予算がなく、後回しにされ続けること。
「確認します。できる限り早く対応します」
「ありがとうねえ。若様は、お父様に似て優しいね」
老婆が笑って席に戻っていく。
父に似て優しい。
その言葉が、刺さった。
父は優しかった。穏健で、どの派閥にも与せず、小さな領地を守ることだけに心を砕いた。その結果、後ろ盾を失い、息子に何も残せずに死んだ。
――優しさで領地は守れない。だからカドレイユについた。
自分にそう言い聞かせてきた。それは間違っていないはずだ。
だが。
この酒場で、水路の話を聞き、老婆の願いを聞き、商人たちの愚痴を聞いていると、王都での自分がひどく遠い場所にいたような気がする。
ダリオの晩餐会。エクハルトの密命。グリシカへの探り。アレクシアとの邂逅。
あの場所で自分が握っていた「二枚の札」は、この酒場の誰一人として知らないし、知る必要もないものだ。民にとって重要なのは、水路が直るかどうか。裏手の道の水はけが改善されるかどうか。ただ、それだけだ。
政治が民の暮らしを左右する。だが民の暮らしは、政治の言葉では語られない。
その溝を、ヴィクトルは初めてはっきりと感じた。
夜、執務室で一人、帳簿を開いた。
数字を並べる。水路の修繕費。道の排水改善。街道の補修。どれも必要で、どれも小さな金額で、そしてどれも足りていない。
すべてを賄うには、領地の収入だけでは限界がある。外から金を引かなければならない。そのために派閥に属し、そのために王都で頭を下げている。
――だが、引いてきた金は、本当にここに届いているか?
カドレイユ派にいて得られる恩恵は、魔術院の人脈と、貴族社会での庇護だ。領地の水路を直す金ではない。
では、王家側についたらどうか。アレクシアは宮廷魔術師の制度を拡充しようとしている。五星の戦果を背景に、王家の権威を取り戻そうとしている。その流れに乗れば、中堅貴族にも新たな道が開けるかもしれない。
――だがそれは、賭けだ。
王家が復権するかどうかは、まだ分からない。カドレイユの影響力は依然として大きい。この段階で旗幟を変えれば、派閥からは裏切り者として潰される。
結局、答えは出ない。いつも通りだ。
帳簿を閉じ、窓の外を見る。ヘルデンの夜は暗い。王都のような魔術灯はなく、通りを照らすのは各家の窓からの灯りだけだ。
小さな光。小さな暮らし。
それを守ることが、自分の仕事のはずだ。
「……親父」
呟いてから、首を振った。父に語りかけたところで、答えは返ってこない。穏健で優しかった父の選択が正しかったのか、それとも自分がカドレイユについた判断が正しいのか。どちらが「勝つ側」なのか。
いや、そもそも。
「勝つ側」を選ぶという発想自体が、この領地には似合わない。
ここにあるのは、勝ち負けではなく、ただ続いていく日々だ。水路を直し、道を整え、麦を育て、冬を越す。三千人の暮らしが、明日も続くようにする。それだけのことが、どれほど重いか。
王都にいると、忘れそうになる。
ヴィクトルは灯りを消し、寝台に横になった。
明日は水路の補修計画を立てる。職人と話をし、ハインツと予算を詰める。ヨルダの裏手の道も見に行かなければならない。
小さなことだ。王都の政治に比べれば、取るに足らない話だ。
だが足元を忘れた政治に、何の意味がある。
その問いだけが、暗い天井に浮かんでは消えた。