秤の傾き


帝国が動いた、という報せが王都に届いたのは、ヴィクトルが領地から戻って三日後のことだった。

バルナスティア帝国の軍が東部国境沿いに集結を始めている。規模は前回の第一次侵攻を上回る可能性がある。正式な宣戦はまだないが、国境の町では既に避難が始まっていると。

王都の空気が、一夜にして変わった。

通りを行き交う人々の足が速くなり、商人たちは物資の買い占めに走り、酒場では戦争の噂が絶えない。貴族たちは自邸に使者を走らせ、情報の収集に奔走している。

ヴィクトルもまた、走っていた。


最初に動いたのは、カドレイユだった。

帝国集結の報から二日後、ヴィクトルのもとに書簡が届いた。封蝋にはカドレイユ公爵家の紋章。中身は短かった。

『明後日、公爵邸にて会合を行う。出席されたし。――ダリオ・アルヴ・カドレイユ』

晩餐会ではない。会合。この言葉遣いの違いが意味するものを、ヴィクトルは理解していた。酒を飲みながらの政治談義ではなく、具体的な方針を決める場だ。

同日、もう一通の書簡が届いた。

王宮からの通達。帝国の動向を受けて、全貴族に対する緊急の評議招集。三日後、王宮大広間にて。女王アレクシアの名で発せられた、正式な召集令状だった。

カドレイユの会合が先。王宮の評議が後。この順番に、意味がある。

ダリオは、王宮の評議の前にカドレイユ派の足並みを揃えておくつもりだ。女王が何を言おうと、派閥として一枚岩で臨む。そのための事前調整。

ヴィクトルは二通の書簡を机に並べて置いた。

カドレイユの紋章と、王家の紋章。

二枚の札。いや、二つの呼び出し。どちらも断ることはできない。


カドレイユ邸の会合は、前回の晩餐会とは雰囲気が違っていた。

席順は同じだが、料理はない。テーブルの上には地図が広げられ、帝国軍の推定配置が書き込まれている。出席者の顔にも緊張が見える。

ダリオだけが、いつもと変わらなかった。

「帝国が攻めてくること自体は、想定の範囲内だ」

主座から、低い声が響く。

「問題は、この機に女王が何を仕掛けてくるかだ」

上席のエクハルトが頷く。

「五星の拡充でしょう。第一次侵攻の時と同じ手を使うはずです。戦時に王家直属の戦力を前面に出し、戦果を以て王権の強化を図る」

「その通り。あの小娘は戦争を利用する気でいる」

ダリオの声に、初めて苛立ちの色が混じった。

ヴィクトルは末席で黙って聞いていた。ダリオの分析は正しい。アレクシアが五星を創設した意図は、まさに王家の権威を取り戻すことにあった。第二次侵攻は、その路線をさらに推し進める絶好の機会になる。

「我々の方針は明確だ」

ダリオが地図の上に手を置いた。

「防衛は王国騎士団と五星に任せればいい。我々は魔術院を通じて後方支援の体制を固める。補給、情報、魔術支援。前線に出るのではなく、戦争の基盤を握る。基盤を握る者が、戦後の発言権を持つ」

前線ではなく、基盤。戦場ではなく、政治。

ダリオらしい判断だった。

「各家は、自領の兵站を確認し、魔術院との連携体制を報告せよ。レーヴェン」

名前を呼ばれる。

「お前の領地は中部の街道沿いだ。王都と南部を結ぶ補給線の要衝になる。通行の管理と物資の中継を担え」

「承知いたしました」

即答する。これは命令であり、同時に機会でもある。補給線の管理を任されるということは、カドレイユ派の中での立場が上がるということだ。

だが、ヴィクトルの頭の中では、別の計算が回っていた。

補給線の要衝。それは、カドレイユ派にとって重要であると同時に、王家にとっても重要だということだ。どちらの側にとっても、レーヴェン領を押さえることには価値がある。

つまり、自分の持ち札の価値が上がった。

「ダリオ様」

エクハルトが口を開いた。

「王宮の評議では、女王が戦時権限の拡大を求めてくる可能性があります。それに対する我々の姿勢は」

「反対だ。当然だろう。戦時であっても、王権の一方的な拡大は認めない。魔術院と貴族会議の合意なくして、兵の動員も予算の転用も行わせない」

断言だった。

ヴィクトルは、その言葉を聞きながら、領地の水路のことを思い出していた。

戦時権限の拡大に反対する。王権を抑え込む。それがカドレイユ派の方針。

だが、帝国が本当に攻めてきた時、合意形成に時間をかけている余裕があるのか。貴族会議と魔術院の調整を待っている間に、東部の町が焼かれるのではないか。

水路を直す金すら出せない自分が、戦争の戦略を語る資格があるのかどうかはさておき。

「レーヴェン。何か意見はあるか」

ダリオの目が、末席を射抜いた。

「……いえ。ダリオ様の仰る通りかと存じます」

いつもの言葉を返した。いつもの従順な顔で。

だが今回、その言葉を口にする時、舌の上にかすかな苦みがあった。


王宮の評議は、三日後に開かれた。

大広間に集まった貴族は五十を超える。カドレイユ派、王家派、中立派。普段は顔を合わせることのない地方の小領主まで、戦争の報せに引き寄せられて王都に上ってきている。

ヴィクトルは会場の中ほどに立っていた。カドレイユ派の面々は左手に固まり、王家派は右手に。中立の貴族たちは後方に散在している。

玉座に、アレクシアが座った。

質素だが威厳のある装い。表情は落ち着いている。だがその目に、ヴィクトルは緊張を見た。廊下で世間話をしていた時の穏やかさではない。覚悟を決めた者の目だった。

「お集まりいただき、感謝いたします」

アレクシアの声が、広間に響いた。

「帝国の動向については、既に皆様もご存知のことと思います。バルナスティア帝国軍が東部国境沿いに集結を始めています。規模は第一次侵攻を上回る見込みです」

広間にざわめきが走る。アレクシアは構わず続けた。

「王国の防衛体制を早急に整える必要があります。つきましては、以下の三点を貴族会議に諮ります」

間を置いて、女王は言った。

「一つ、王国騎士団の即時動員。二つ、アーヴェリア五星を中核とした防衛戦力の編成。三つ――」

広間が静まる。

「戦時における指揮系統の一本化。王家が全軍の統一指揮権を持つことを、ここに求めます」

沈黙。そして、爆発。

「統一指揮権だと!」

カドレイユ派の一人が声を上げた。エクハルトだった。

「陛下、それは王権の拡大に他なりません。貴族会議の合意なくして——」

「合意を求めています。今、この場で」

アレクシアの声は静かだった。だが、退く気配はなかった。

「帝国の侵攻に対し、各家が個別に動けばどうなるか。指揮系統が分断されれば、前線は混乱します。第一次侵攻の教訓を、繰り返すわけにはいきません」

「教訓とは心外です。第一次侵攻では我々貴族もまた——」

「犠牲を出しました。多くの。だからこそ、同じことを繰り返してはならないのです」

アレクシアの目が、一瞬だけカドレイユ派の方を向いた。怒りではなかった。懇願でもなかった。ただ、まっすぐに事実を述べている目だった。

ダリオが立ち上がった。

広間が再び静まる。カドレイユ公爵が立てば、その声は派閥の総意として受け取られる。

「陛下のお考えは理解いたします。しかし、統一指揮権の付与は前例がなく、慎重な審議が必要です。即断即決は拙速というもの。まずは貴族会議と魔術院の合同審議に付すべきかと存じます」

丁寧だが、拒絶だった。「審議に付す」とは、事実上の棚上げを意味する。審議を始めれば、帝国が攻めてくるまでに結論が出る保証はない。

アレクシアは表情を変えなかった。だが、その手が、一瞬だけ玉座の肘掛けを握りしめたのを、ヴィクトルは見逃さなかった。

広間では、貴族たちがそれぞれの立場で声を上げ始めていた。賛成、反対、保留。声が重なり、議論とは名ばかりの混沌が広がっていく。

ヴィクトルは、その渦中で黙っていた。

声を上げる立場ではない。末席の子爵が何を言ったところで、この場の流れは変わらない。

だが、見ていた。

アレクシアの手が震えていないことを。ダリオの声に一点の迷いもないことを。そしてその二人の間で、王国の運命が、政治の言葉によって切り刻まれていくことを。

――足元を忘れた政治に、何の意味がある。

領地で自分に問いかけた言葉が、ここで再び蘇った。

この広間で叫ばれている言葉の中に、東部国境の町の住民のことを考えている声が、いくつあるだろう。水路が崩れ、道が泥に沈み、それでも日々を続けていく人々のことを、この場の誰が見ているだろう。

アレクシアは、見ている。

少なくとも、あの女王は「犠牲を繰り返してはならない」と言った。それは政治的なレトリックかもしれない。だが、あの目に嘘はなかった。前にもそうだった。「誰が支えているかに関わらず」と言った時と同じ目だ。

ダリオは、見ていない。

いや、見えているはずだ。あの男の頭脳が、戦争の被害を計算していないはずがない。だが、彼にとって戦争は政治の延長だ。犠牲は数字であり、数字は交渉の材料だ。

どちらが正しいのかは、分からない。

だが、どちらの側に立った時、自分は三千の民の顔を思い浮かべられるか。

その問いだけが、広間の喧噪の中で、ヴィクトルの胸に静かに落ちた。


評議は結論を出せないまま散会した。

統一指揮権の議題は「継続審議」として持ち越された。ダリオの思惑通りの展開だ。カドレイユ派は結束を保ち、王家の要求を退けた。

廊下に出ると、カドレイユ派の面々が安堵の表情を浮かべていた。エクハルトがヴィクトルの肩を叩く。

「まずは上々だ。女王の焦りが見えたな」

「ええ」

それだけ返して、足を速めた。

大廊下を歩きながら、ふと振り返った。

広間の出口で、アレクシアが文官と話をしているのが見えた。背は小さく、玉座の上でなければ見落としそうなほどだ。

だがその背筋は、真っ直ぐだった。

退けられても、棚上げにされても、折れていなかった。

ヴィクトルは前を向き直し、歩き出した。

宿に戻る道すがら、胸の内で秤が揺れているのを感じた。

片方の皿には、カドレイユの庇護。安全。確実性。今までの自分。

もう片方の皿には、まだ何も載っていない。ただ、あの女王の真っ直ぐな背筋と、「犠牲を繰り返してはならない」という声だけが、皿の上で震えている。

重さが足りない。まだ、傾くには足りない。

だが、秤は既に水平ではなかった。