賭け


評議から十日が経った。

帝国軍の動きは加速していた。東部国境を越えたとの報はまだないが、偵察部隊の接触が日に数回の頻度で報告されている。王国騎士団は東部に展開を始め、五星のうち二名が既に前線に向かった。

だが統一指揮権の議論は、まだ決着していない。

カドレイユ派が主導する「合同審議」は、三度の会議を経て何一つ結論を出していなかった。審議の度に新たな論点が提起され、議論が枝分かれし、結論が遠のいていく。意図的な遅延であることは、誰の目にも明らかだった。

ヴィクトルは王都に留まっていた。補給線の管理をカドレイユ派から命じられている以上、中部の街道に関する調整を王都で行う必要があった。

だが、調整の合間に、別のことを考えている時間が増えていた。


その日の夕刻、ヴィクトルは魔術院の裏門を出たところで、思いがけない人物に出くわした。

グリシカ・クルーシャが、一人で歩いていた。

護衛のいない、いつもの帰り道だろう。質素な外套に短杖。暗殺未遂を経験した副宰導が、今日も変わらず一人で石畳を踏んでいる。

「副宰導」

声をかけると、グリシカが足を止めた。振り返る目に、警戒はなかった。ただ、静かな観察がある。

「レーヴェン卿。今日も事務方に」

「ええ。補給線の件で。……少しお時間をいただけますか」

前回と同じ言葉だ。だが今回は、カドレイユの密命で来たわけではない。

グリシカはしばらくヴィクトルの顔を見ていた。何かを測るような、前回と同じ短い視線。だが今回は、その後の沈黙が少し長かった。

「……歩きながらでよければ」

二人で、夕暮れの通りを歩き始めた。

しばらく無言だった。ヴィクトルは言葉を探していた。政治家として場を繕うための言葉ではなく、本当に聞きたいことを聞くための言葉を。

「副宰導。一つ伺ってもよろしいですか」

「どうぞ」

「あなたはなぜ、護衛をつけないのですか」

グリシカの歩調が、わずかに乱れた。すぐに戻ったが、その一歩分の揺れを、ヴィクトルは見逃さなかった。

「……仕事に必要ないからです」

「暗殺未遂があったと聞いています」

「ありました」

「それでも、ですか」

沈黙が落ちた。夕暮れの通りを、二人の足音だけが刻んでいく。

「レーヴェン卿」

「はい」

「守られて生きることは、私の性に合いません。それだけです」

短い答えだった。だがヴィクトルには、その言葉の裏にあるものが見えた気がした。

この人は、自分の足で立つことを選んでいる。誰かの庇護の下に入ることを拒んでいる。派閥にも、権威にも、寄りかからない。

それは――ヴィクトルが、できなかったことだ。

「もう一つ、伺ってもいいですか」

「どうぞ」

「統一指揮権の件。副宰導は、どうお考えですか」

グリシカが足を止めた。

「私の立場では、政治的な意見を述べることは控えています」

「承知しています。ですから、政治的な意見ではなく」

ヴィクトルも足を止めた。向き合う。グリシカの目は夕日を受けて、琥珀色に光っていた。

「一人の人間として。帝国が攻めてきた時、指揮系統が分断されたまま戦うことを、どう思いますか」

長い沈黙があった。

通りの向こうで、商人が荷車を引いている。子供の笑い声が、どこかの路地から聞こえてくる。

「……人が死にます」

グリシカの声は、静かだった。

「指揮が統一されていなければ、前線の判断が遅れます。遅れた分だけ、兵が死にます。それは、政治の問題ではありません」

「必要性の問題ですか」

グリシカが、ほんのわずかに目を見開いた。

「……ええ。必要性の問題です」

以前、魔術院の廊下で聞いた言葉と同じだ。「予算は政治ではなく必要性で判断する」。この人は、あの時も今も、同じ原則で物を言っている。

ヴィクトルは小さく頭を下げた。

「ありがとうございます。お時間を取らせました」

グリシカは頷き、歩き出した。数歩進んで、振り返った。

「レーヴェン卿」

「はい」

「……判断は、ご自身でなさってください。誰かに決めてもらうものではありません」

それだけ言って、グリシカは夕暮れの通りに消えていった。


宿に戻り、机に向かった。

灯りを点け、白紙を広げる。ペンを取る。

何を書こうとしているのか、自分でもまだわかっていなかった。だが、手が動いた。

まず、帳簿の数字を書き出した。レーヴェン領の税収。水路の修繕費。道の補修費。三千人の民を養うための、小さな数字の群れ。

次に、地図を描いた。粗い手描きの地図。王都と、南部カドレイユ圏と、その間のレーヴェン領。街道が一本、領地を貫いている。

補給線。

この街道を、カドレイユ派が管理する。ダリオはそう命じた。だが、この街道が王国全体の防衛にとってどれほど重要かを、ダリオは「政治の材料」としてしか見ていない。

アレクシアなら、どう見るだろう。

あの女王なら――この街道を、兵を生かすための道として見るだろう。物資を運び、兵站を支え、前線の兵士が飢えずに戦えるようにするための道として。

「犠牲を繰り返してはならない」

あの言葉が、また蘇る。

ヴィクトルはペンを置き、天井を見上げた。


秤のことを考えた。

これまでずっと、二つの皿の重さを量ってきた。カドレイユの庇護と、王家への転向。安全と、賭け。確実性と、不確実性。

だが、秤の喩えそのものが間違っていたのかもしれない。

秤は、二つのものを比べる道具だ。どちらが重いか、どちらが得か。そうやって量り続けてきた。「勝つ側を選ぶ」という信条は、まさにその秤の上で生きることだった。

グリシカは言った。「判断は、ご自身でなさってください」

自分で決める。誰かの派閥に乗るのではなく、どちらが勝つかを予測するのでもなく。自分の足で立って、自分の目で見て、自分の言葉で選ぶ。

アレクシアは言った。「誰が支えているかに関わらず」

支えているのが王家でもカドレイユでも構わない。大事なのは、研究が盛んであること。民が守られること。兵が無駄に死なないこと。

二人の女は、それぞれのやり方で同じことを言っていた。

政治を、得失の秤で量るな。

必要なことを、必要だから選べ。

「……親父」

また呟いていた。

父は穏健だった。どちらにもつかず、小さな領地を守ることだけに心を砕いた。それを弱さだと思っていた。後ろ盾を持たない弱さだと。

だが、もしかしたら。

父は秤を使っていなかったのかもしれない。どちらが勝つかではなく、何が必要かで動いていた。三千の民のために、ただ必要なことをしていた。それは弱さではなく――

「……強さだったのかもしれないな」

声に出すと、不思議と胸が軽くなった。

ヴィクトルは白紙に向き直った。

ペンを取り、書き始めた。


翌朝、ヴィクトルは二通の書簡をしたためた。

一通目は、カドレイユ公爵ダリオ・アルヴ・カドレイユ宛。

『補給線の管理につきまして、現状の体制では王国全体の防衛に支障をきたすと判断いたしました。つきましては、街道の運用を王国騎士団との共同管理に移行することを具申いたします。なお、この判断は貴族会議の合同審議の結論を待たず、レーヴェン家の独自判断として行うものです。長らくのご厚情に感謝申し上げます。――ヴィクトル・レーヴェン』

離反の宣言だった。

カドレイユ派から任された補給線を、王国騎士団――すなわち王家の指揮系統に差し出す。派閥の命令に背き、独断で王家側と連携する。

穏やかな文面とは裏腹に、これはダリオへの裏切りに等しい。

二通目は、アレクシア・アルヴ・イリディア女王陛下宛。

『レーヴェン子爵家は、領地の街道を王国の防衛補給線として提供いたします。王国騎士団との共同管理に必要な人員と物資の手配について、ご下命いただければ即座に対応する所存です。王国と民のため、微力を尽くします。――ヴィクトル・レーヴェン』

短い書簡だった。飾った言葉はない。美辞麗句もない。

ただ、必要なことを、必要だから差し出す。それだけだ。


封蝋を押し、二通を並べた。

カドレイユの会合で使った末席の椅子が、頭をよぎった。あの席はもう、自分のものではなくなる。

エクハルトの顔。ダリオの冷たい目。派閥の同僚たちの視線。裏切り者を見る目が、向けられるだろう。

怖くないと言えば嘘になる。

カドレイユの庇護を失えば、レーヴェン家は再び裸の小領主に戻る。大きな木の陰から出て、雨に打たれることになる。

だが。

「雨なら、前から降ってたんだよな」

呟いて、苦く笑った。

カドレイユの陰にいても、水路の修繕費は出なかった。ヨルダの裏手の道は直らなかった。派閥の恩恵は麦畑には届かなかった。雨はずっと降っていて、木の陰はただの気休めだった。

ならば。

雨の中を、自分の足で歩く。父がそうしたように。

ヴィクトルは書簡を使者に渡した。

一通は南へ。一通は宮殿へ。

部屋に戻り、窓を開けた。朝の空気が流れ込んでくる。王都の喧騒が、遠くから聞こえる。

何も確定していない。アレクシアが書簡を受け取って、どう動くかは分からない。カドレイユがどう報復してくるかも分からない。レーヴェン家がこの賭けで得るものがあるかどうかも、分からない。

だが、一つだけ確かなことがある。

この判断は、秤で量って出した答えではない。

どちらが勝つかではなく、何が必要かで選んだ。

初めて、自分の足で立った。

ヴィクトルは窓辺に手をつき、王都の朝を見下ろした。宮殿の尖塔が、朝日を受けて白く光っている。

「さて」

小さく息を吐いた。

「ここからが本当の賭けだ」

退路はない。あるのは、三千の民と、一本の街道と、自分の名前だけだ。

それで十分だ。

少なくとも今は、そう思えた。